ハレルヤ!こんにちは!

新年度が始まり、
すっかり春となったこの季節、
私たちは4月13日から始まった
今年の受難週の歩みの中にあります。
受難週は、イエスさまが十字架にかかって死なれた
その痛みと苦しみを覚える1週間です。

キリスト教会のイベントといえば、
クリスマスがその筆頭にあげられると思います。
しかし、あの盛大なお祝いというのは、
実は、イエス・キリストが
この地上にお生まれになった目的を
知ってはじめて、本当の喜びとなります。

昨年2024年のクリスマスキャロルの様子が
まだ未公開でありましたので、
このタイミングで改めて振り返り、
イエス・キリストの地上でのご生涯を通して現された、
神様の愛のメッセージを共に受け取りましょう。

※クリスマスキャロルのプログラムを、
文章化するにあたり加筆・再構成しました※

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「わたしとあなた、私とあなた」

昨年の11月のある日のことです。
私はある奇妙な体験をしました。
姪っ子とスーパーで買い物をして外に出たところ、
一瞬の強い風に、
姪のピンクのキャップが飛ばされてしまいました。


背後に飛ばされたそのキャップを目で追って振り返ると、
同じスーパーから出てきた一人の男性が
素早く反応してそれを拾い上げてくれるのが見えました。
私たちは慌てて近づいて、
ありがとうございます」
とキャップを受け取ったのですが…

するとその男性が
「あの、これもらってくれませんか?」
と一つの大きなマフィンを差し出してきたのです。


あまりに突然のことに、
私の口から出た言葉は
「え?なんでですか?!」。
見ず知らずの人からマフィンを
もらう理由がまったく思いつかない
むしろ、お礼として何かを手渡すとしたら
私たちの方なのに。
混乱したと同時に、
若干の恐怖を覚えたのが正直なところです。
まちがえて買ってしまったので」
と言った男性の腕の中には、
確かに、今買ったばかりと思われるパンが
他にも数個抱かれていましたので
素直な親切心と理解して
「ありがとうございます」
と受け取りました。
が、風の吹く中、
足早に去っていくその男性の後ろ姿を、
私と姪は不思議そうな顔で見送ったのでした。

この体験は静かに私の心に残り続け、
クリスマスへの準備を進める中で、
何度も何度も繰り返し思い出されました。
差出人不明の荷物ほど怖いものはない。
その荷物が高価であればあるほど恐怖は増す。

もちろん高価なプレゼントは嬉しいけれど、
一番肝心なのは、誰がくれたプレゼントなのかだ。
クリスマスのメッセージを人に伝えようとする時、
私たちクリスチャンは
イエスさまは神様からの本当のクリスマスプレゼント」
と語りがちだが、
プレゼントの贈り主である神がどのような方であり、
私たちとどんな関係があるのか。
このことをまず知ってもらわなければいけない、
と気付かされたのでした。

そして、神様を知ることこそが、
クリスマスの主役であられるイエスさまが
一番喜ばれるお祝いの仕方であることにも
思い至らせられたのでした。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
ーホセア書6章6節ー

では、私たちは神様をどのようにして
知ることができるのでしょう。
確かに、私たちの神は、
今はまだ目に見ることのできない神です。
しかし、言葉なる神、日々語られる神なのです。
私たちは、神の言葉の集大成である聖書を通して、
その語り主なる神の実在を知り、
さらにその神の考えと性格を知ることができるのです。

この聖書という書物は、
旧約聖書と新約聖書、
つまり旧い契約と新しい契約からなる
壮大な「契約書」の体裁で記されています。
契約書というのは、
その書き出しの前文に必ず
「○○(以下「甲」という。)と△△(以下「乙」という。)は、
以下のとおり契約を締結する。」と記されます。
「誰と誰が」結ぶ契約であるのかを
はっきりさせることが重要だからです。
聖書の書き手である神も、
ご自身を指してはっきりと「わたし」と語られます。
そして「あなた」と、契約の結び手に
呼び掛けておられます。
この「あなた」は私自身のことだと理解した時、
聖書の契約内容が私に対して有効になるのです。

私はあなたのみことばを見つけ出し、
それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。
万軍の神、主よ。
私にはあなたの名がつけられているからです。
ーエレミヤ書15章16節ー


聖書は日本語訳の多くの場合、
神の一人称をひらがなで「わたし」
人間の一人称を漢字で
「私(わたくし)」と表記を区別しています。
神様が、「わたし」から「あなた」
向けて語られる言葉に耳を傾けましょう。
みことばと賛美を通して、
神様のそのはっきりとした輪郭が、
私たち一人一人の心に浮かび上がってきますように。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
ーイザヤ書41章10節ー

見よ。わたしは手のひらに
あなたを刻んだ。
あなたの城壁は、
いつもわたしの前にある。
ーイザヤ書49章16節ー

あなたがたがわたしを
選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、
あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
その あなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたが
わたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。
ーヨハネの福音書15章16節 ー

   わたし、このわたしは、
 わたし自身のために
あなたのそむきの罪をぬぐい去り、
もうあなたの罪を思い出さない。
ーイザヤ書43章25節ー

見よ。わたしは、世の終わりまで、
いつも、あなたがたとともにいます。
ーマタイの福音書28章20節ー

   わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
ーイザヤ書43章4節ー

神様が私たち人間と
結ぼうとしておられる契約は、
愛の契約です。
それは、今の人間関係における婚姻関係に似ています。
健やかなる時も、病める時も、
あなたは彼/彼女を支え、愛することを誓いますか?」。
聖書は、まず神様が、
私たち人間を愛されたこと、
共に住みいつまでも一緒にいたいと願われたこと、
そのために自ら人の姿をとって
この地上にお生まれになったと、
クリスマスの意味を語ります。
そして、その愛を知ってほしい、
その愛にあなたはどう応答するか、
と今を生きる私たち一人ひとりに問いかけてくるのです。

たとい、 死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
ー詩篇23篇4節ー 

あなたは私に、
いのちの道を 知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち
あなたの右には、 楽しみがとこしえにあります。
ー詩篇16篇11節ー

私は主を愛する。
 主は私の声、
私の願いを聞いてくださるから。
主は、私に耳を傾けられるので、
 私は生きるかぎり
主を呼び求めよう。
ー詩篇116篇1~2節ー

主よ。まことにあなたは いつくしみ深く、
赦しに富み、
あなたを 呼び求めるすべての者に、
恵み豊かであられます。
ー詩篇85篇5節ー

「見よ、処女がみごもっている。
 そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
(訳すと、神は私たちとともにおられる、
という意味である。)
ーマタイの福音書1章23節ー

主よ。あなたはいっさいことをご存じです。
あなたは、私があなたを愛することを
知っておいでになります。
ーヨハネの福音書21章17節ー

聖書は、難解で抽象的、
まことしやかな言葉の羅列ではありません。
「わたし」と語られるただ一人の神が
「あなた」に伝えたいと記された
愛のメッセージなのです。
そのメッセージを受け取って、
本当のクリスマスの喜びを知る
お一人おひとりでありますように。

神が人を愛し、
自ら人に近づき、共に住まわれた。
それはまるで、王宮に住んでいた王子が
舞踏会で見初めた町娘を探して、
街にまで降りてきたーそんなおとぎ話を
彷彿とさせますね。
しかし、そんなおとぎ話に例えれば、
これにて
こうして神と人間はいつまでも
幸せに暮らしましたとさ」
と結末を迎えるわけにはいかないのです。
なんと、見つけ出したその娘には
莫大な借金があったので、
取立屋が娘を渡すわけにはいかないと騒ぎ立てた、
という最大のヤマ場がまだ残っていたのです。

聖書は一貫して神の愛を語ると同時に、
すべての人間に罪があるという現実を、
残酷なまでに突きつけてきます。
最初の人アダムが、
いのちの源である神から離れたことに始まり、
人間はみな神を否定し、
自己を中心として生きる者となりました。
それが聖書の示す原罪です。
その結果、人類に死が入り込み、
こうして、「完全な義なる永遠に生きておられる神」と
「罪に汚れ滅びゆく人間」、
両者にはとうてい乗り越えられない
大きな壁ができてしまったのです。

そういうわけで、
ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、
罪によって死がはいり、
こうして死が全人類に広がったのと同様に、
ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。
ーローマ人への手紙5章12節ー

見つけ出した町娘の境遇を知った
王子はどうしたでしょう。
その借金をすべて自分が
肩代わりすると宣言したのです。
これこそが、受難週のこの時期に覚える
イエス・キリストの十字架の恵みです。
私たちのすべての罪をその身に負って
十字架で死んでくださったイエスさま。
その贖いにより、
私たち人間が抱えていた負債は
すべて帳消しとなり、
私たちがまた永遠のいのちに
至る道が回復されました。

謙虚な町娘だとしたら、
申し訳ないのでそんな提案は受けられません、
と恐縮して辞退するかもしれません。
そんな都合のいい話があっていいはずがない、
と外野は騒ぐかもしれません。
しかし、王子は言います。
わたしはあなたを愛しているのです」と。

愛こそが、ただ愛だけが、
この一方的な都合のいい話を
論理立てることができるのです。
クリスマスに、
イエスさまがこの地上に
お生まれになったその目的は、
十字架の死でありました。

私たちがまだ弱かったとき、
キリストは定められた時に、
不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも
死ぬ人はほとんどありあせん。
情け深い人のためには、
進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために
死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛
を明らかにしておられます。
ーローマ人への手紙5章6~8節ー

物語がハッピーエンドで終わるかどうかは、
この神の愛の申し出を、
あなたが受け入れるかどうかにかかっています。
そして、最高に喜びあふれるエンディングが、
次週の復活祭です。
神の愛の完成は、
イエス・キリストの十字架にあり、
神の完全な勝利は、
イエス・キリストの復活にあります。

その意味を知って、
喜びを共に分かち合いましょう。

教会は、イエスさまは、
あなたを待っています。

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